手付を払ったら売主失踪、さあどうする。
1.売主はおめでたき人
懇意にしている不動産業者から慌てた口調で「今からそちらへ行ってよいか」という電話が入った。不動産業者は5分ぐらいでやってきた。明後日に控えた受渡(残代金精算、引渡)の売主に連絡が付かず、失踪していると言う。こんな事は初めてだと言う。私も初めてであった。開業して5年目の夏の事だった。
何でも売主は大変人のいい人間だそうで、その不動産業者による苛立ち気な言い方では「バカに近い」であった。
このホームページ上で再三紹介しているが、不動産の売買契約の仕方には二種類あって、手付売買と現況有姿売買である(詳しくはここをクリック)。
本件売買は手付売買であつた。手付売買では原則的に二回買主が金銭を受領する。一回目が手付金であり、二回目が残代金である。この残代金精算の時に、司法書士は立ち会うのであり、売主の本人確認、意思確認、そして売買目的物の確認という重要な行為をし、無事買主に所有権移転登記ができるよう最大の注意を払う。よって一回目の手付金交付の売買契約の時には我々司法書士はお呼びがかからないのである。売買契約が成立してから、若しくは成立しそうな直前に残代金精算、引渡日を決定するための打診があり、その情報を知るという次第である。だから私は不動産業者の訪問を受けるまでは売主の人となりは全然知らなかった。
2.訴訟に発展か
買主は売主の隣地の人間であった。
その買主と不動産業者と私の三人で協議したのは、売主がとうとう現れなかった受渡当日の蒸し暑い夜の事であった。
不動産業者の苦悩の顔は今でも覚えている。額に汗をして、一点を見つめていた。自分への損害賠償に発展するかも知れない。買主に申し訳ない。探し出す方法はないか。いろいろな思いが交錯していたはずである。
買主から聞いた売主の事情とはこうである。
売主は27,8歳、母と二人で長い間暮らしていたらしい。その母が死んで、住んでいた土地建物を相続し、今回売却に及ぶことになった。何でも知的障害の範疇には入らないが、後先の論理を考えられない、バカがつくぐらいお人好しな人間だという。どうも取り巻き連中が悪いらしいとの話であった。手付金が無くなればまた、戻ってくるさと案外楽観的な言い方をし、不動産業者を気遣っていた。しかし、それが何時なのか分からない。
不動産業者は私に質問した。もし現れなかったら、どうしたらよいのかと。
かかる解決は訴訟しかない。売主を被告として、「残代金と引き換えに所有権移転登記をせよ」という勝訴判決をとるしかない。しかも、事故が顕在化した今、仮登記も何にもないものだから、二重売買の危険性すらもある。不動産を担保に消費者金融から金を借りないとも限らない。処分禁止の仮処分を前提としなければならない。しかもそれは早くやらなければならない。何が起きるか分からないからだ
不動産業者から、訴訟費用はいくらだ、弁護士費用は売主に負担させられないか。矢継ぎ早に質問がとんだ。訴状の貼用印紙はともかく、弁護士費用は200万から250万ぐらい(弁護士によって異なるが不動産が訴訟物の場合、時価、若しくは固定資産税評価額の1割〜1.5割位)、その費用は交通事故被害のような不法行為を原因とするような場合ではないから原告負担と申し上げた。
3.目つきの鋭い男がやってきた。
何日か経過した後だと思う。不動産業者から電話があった。
「今、売主が帰ってきたそうだ。金がなくなって帰ってきたみたいだ。買主が今、売主をそこへ行かせたから兎に角ハンコをもらってくれ。受渡はあさって××銀行でやる。」と慌てた口調であった。
しばらくしてから、私の事務所に、売主と、そしてもう一人、目つきの鋭い男が入ってきた。年は売主と同じぐらいであろうか。私に挨拶もしない。売主が残代金をもって自分達から逃げないようにぴったり付いていると言う感じであった。私は直感で暴力団員だと思った。売主は確かに人の良さそうな人間であった。
私は、免許証を拝見し、2,3の質問をし、本人であることを、そして、売却意思を確認し、書名押印をもらった。
「あさって、午前某時に××銀行へ来てくださいね」と私は売主に言葉をかけると、売主は何故か難色を示した。確かに売主がその日に来なくても、意思確認の上、売渡証書も出来ており、権利書と印鑑証明書が確保されていれば本人が来なくても支障はないはずである。その時であった。それまで一言も言葉を発しなかった目つきの鋭い男が゛「出ればいいじゃないか」と語気鋭く売主に言い放った。
売主は応諾した。
4.囲まれた銀行
受渡当日の朝、××銀行に到着すると、駐車場に一昨日の目つきの鋭い男が立っていた。私は車を止め、銀行に入ろうとすると、玄関に、仲間と思われる別の人間が立っていた。同じ様な雰囲気を持っているから分かる。
私は応接室に入り皆と顔を合わせ挨拶をした。ソファの中央に挟まれるように売主が座っていた。
必要書類の授受が終わり、残代金の精算迄にちょっとした時間があく。
その時、買主が売主に諭すように強い言葉で話しかけた。
「○○よ、よく聞け。外には変な連中が待っている。
お前しっかりしなきゃいかんぞ。お母さんだって、すごくお前のことを心配してたぞ」
「うん」と売主は力無く答えた。
「これから何するつもりだ」と買主。
「わからん」と、ゆっくりとした抑揚のない返事が戻ってきた。目はにやにや笑っていたような気さえした。
仲介不動産業者も、私も、できるアドバイスをした。しかし、人ごとのように話を聞くだけであった。
私は応接室を後にした。玄関と駐車場には先ほどの男達がやはり立っていた。
車に乗り込んで、別の道路から出ていくと、何と裏口にも一人男が立っていた。
完全に銀行は囲まれていた。
4.エピローグ
その後の売主がどうなったかは知らない。多分、読者の考えているような結果になっていると思う。
彼らのやっていることは、被害届が出ない以上、犯罪ではないのであろう。
これも私的自治原則の一面なのだと自分に言い聞かせた。
後味の悪い事件であった。
(注)私的自治
私法的法律関係に関しては、個人はその自由意思に基づいて法律関係を形成することができ、国家はかようにして形成された法律関係を尊重すべきであって、干渉すべきではないと言う原則(四宮和夫著 民法総則 新判P.22より)